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あさくらの歴史

朝倉地域にいつごろから人々が定住を始めたのかは定かではありませんが、各地域での埋蔵文化財発掘調査の成果によれば、旧石器時代の終わりくらいまでには郷土朝倉に人々が暮らしていた痕跡が確認されています。但し、旧石器時代の遺跡からは、遺物(石器等の生活に伴う用具)は見つかっていますが、生活の跡が確認される遺構は確認されていません。明確に人々が暮らしたであろう生活痕が確認されるのは、旧石器時代に続く縄文時代になってからです。
紀元前10000年前に始まったとされ、弥生時代の訪れを迎える紀元前約500年前までのおよそ10000年の間を縄文時代と呼びます。この縄文時代の中を便宜上、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期と6時期に分類しています。朝倉地域において草創期の遺跡は確認されていませんが、前期から晩期にかけていくつかの遺跡の広がりを確認することができます。このことは、縄文時代に入り人口が増え、集落が点在したものと考えられます。特に、縄文時代晩期に営まれたと思われる遺跡の数が増えてくることから、この時期に人口が急激に増加したものと思われます。また、出土する遺物も種類が増え、遺構も住居跡だけではなく、埋甕や、支石墓等のお墓等も確認されています。さらに、他の地域から持ち込まれたと思われる土器が確認される事から、地域外との交流が盛んであった事が確認されます。特に支石墓の存在は、朝鮮半島との交流が指摘されています。
稲作が開始され、前方後円墳が作られ始めるまでのおおよそ700年間を弥生時代と呼びます。この時期の朝倉地方は、縄文時代よりもさらに多くの遺跡が確認されています。全ての時期に亘って集落が形成される他、甕棺墓や周溝墓に代表される墓地群が形成されます。さらには、お祀りをするための祭祀遺構なども確認されています。遺物についても、生活に使用されたと思われる土器の他、お祀りに使用されたと思われる土器を赤く塗った丹塗り土器やミニチュア土器、管玉や勾玉、貝輪等の装身具、剣や鉾、戈、鏡等の青銅製品、それを作成した鋳型等が確認されています。特に、筑前町の栗田遺跡や朝倉市の栗山遺跡からは祭祀を行ったと思われる丹塗研磨土器が出土し、弥生時代のお祀りを知るうえで貴重な遺跡として知られています。

この時期になると、朝鮮半島や、中国大陸との交流が盛んになり、様々な半島や大陸系の文化が流入します。代表的なものは稲作ですが、土器等にも半島からの影響がうかがえます。
弥生時代は、集落が発展し、ムラやクニが形成され首長が出現します。それに伴いムラやクニ同士で争いが行われるようになります。中国の史書「後漢書 東夷伝」では「倭国大乱」として記載されています。各ムラやクニでは、集落の周りに堀を巡らして守りを固め、戦いに備えている様子がうかがえます。この環濠集落の代表として朝倉市の「平塚川添遺跡」があります。この遺跡は同時期に存在したと思われる、「邪馬台国」との関係も注目されています。

古墳時代になると、各地で古墳が築かれるようになります。古墳の種類は、弥生時代から継続されて築かれる方形周溝墓や、新たな形態である前方後円墳、円墳や方墳があります。朝倉地域でも多くの古墳が築かれています。 前方後円墳では、朝倉市宮野「宮地嶽古墳」朝倉市小隈の「神蔵古墳(現在消滅)」朝倉市小田「茶臼塚古墳」朝倉市堤「堤当正寺古墳」朝倉市菩提寺「鬼の枕古墳(一部消失)」筑前町下高場「小隈1号墳」があります。前方後円墳は地域を収めた首長の墓と考えられ、畿内の大和王権との結びつきが深い関係にあった事が想定されます。筑前町四三嶋にある「焼峠古墳」は全国でも珍しい前方後方墳として注目されています。また、筑後川流域にある古墳の特色として、墳丘内を絵や模様で飾る装飾古墳があります。朝倉地域でも、朝倉市宮野「湯隈古墳」朝倉市入地「狐塚古墳」筑前町栗田「仙道古墳」が所在し、古代人の思想を知るうえで貴重な資料となっています。この時代になると渡来人の集落が営まれたり、渡来系の技術を用いた須恵器窯が築かれたりと、一層大陸や朝鮮半島との交流が盛んになります。
飛鳥時代には、朝鮮半島にあった百済を救援するために、斉明天皇が自ら軍隊を率い九州までやってきます。その拠点が「朝倉宮」だと言われています。場所については諸説あり、いずれも決め手に欠ける状況ではありますが、朝倉地域には「朝倉宮」に関連した伝承がいくつか残っており、その候補地の一つとして、知られています。斉明天皇をモデルにしたとされる神功皇后の伝説が朝倉地域に多く残っている事は何か関連めいて興味が惹かれます。

朝倉市杷木林田地区に所在する「杷木神籠石」は同時期に築かれたとされる古代山城で、「朝倉宮」を守るため、もしくは畿内へのルートを防御するためのものではないかと考えられています。

奈良時代になると朝倉地域は律令制度に組み込まれ、筑前国の中の「上都安佐久良」「下都安佐久良」「安」の3つの郡に分けられました。朝倉宮を除けば、アサクラという名の初見になります。その後、「好字二字令」により上座郡・下座郡・夜須郡と名前が変わります。各郡には郡役所が設けられます。朝倉市宮野「井出野遺跡」は上座郡の郡役所跡ではないかと考えられています。また、各地に条里制による区割りが行われています。

平安時代になると、中央で仏教文化が花開いた影響を受け、当地でも寺院が築かれたり、経塚が作られたりするようになります。朝倉市杷木志波の「普門院」や朝倉市八坂の南淋寺はこの頃の創建であると伝えられています。また、彦山の域内に組み込まれ、東峰村の岩屋や朝倉市黒川は山伏の行場となりました。以降彦山は勢力を拡大していきます。

鎌倉時代になると秋月氏が台頭してきます。戦功を挙げた原田種雄が恩賞として秋月の庄を手に入れると姓を秋月に変え、秋月を本拠地として地盤を築いていきます。戦いに功を挙げ勢力を拡大するものの、周辺の勢力争いに翻弄され、強固な基盤を手に入れるのは秋月種実の時代になってからです。種実は、薩摩の島津と同盟し、豊後の大友が弱体化したことにもより、筑前国内に基盤を得る事に成功します。また、豊前国や筑後国の一部も領有し、領地は36万石とも言われる最盛期を現出します。しかし、豊臣秀吉の九州征伐に伴う戦の結果、秀吉に敗れた秋月種実は、日向高鍋3万石に領地替えされ、朝倉地域における秋月氏の歴史は、300有余年を数え歴史を閉じます。秋月氏が大友氏との戦いに備えた山城が、朝倉地域には多く残っています。
この時期には、彦山座主の館が朝倉市黒川に築かれます。黒川は、彦山に関連した宗教都市として、黒田氏に破却されるまでの300年弱15代の間存続していたと伝えられます。 また、甘木町もこの頃に形成され、安長寺の門前町として栄えました。後に甘木千軒・秋月千軒と言われた賑わいを見せることになります。

秀吉の九州征伐とそれに伴う九州仕置きの結果、筑前国には小早川氏が入国します。その後、関ヶ原の戦功により、黒田氏が52万石で入国します。朝倉地域には、栗山利安が15,000石で上座郡に、黒田一成が12000石で下座郡に入国します。(後に栗山氏栗山大膳が引き起こした栗山騒動により領地を没収され筑前国を去ります。)また、黒田氏は国境に6端城を築きます。朝倉地域には麻底良城と松尾城が築かれました。(元和元年1615「一国一城令」により破却)

初代筑前藩主、黒田長政の命により、3男黒田長興に嘉麻郡・下座郡・夜須郡の50000石が分知されました。秋月藩の始まりです。 秋月黒田藩は、様々な物語を生みながら、明治4年の廃藩置県まで、12代およそ250年間続きました。
他にも、江戸時代には数多くの事象や文化が花開いています。三連水車に代表される堀川用水及び山田井関は、灌漑用水として用いられ、多くの圃場を潤し、米の生産を高めました。また、蝋や絞りなどの特産品もこの頃に開発されています。

小石原地区では、窯が開かれ、小石原焼の生産が開始されています。 不平士族の反乱である「秋月の乱」、「筑前竹やり一揆」なども勃発し、地方でありながらも揺れ動く時代に翻弄されている様が見て取れます。

大正年間に大刀洗飛行場が設置されると、甘木は軍都として発達します。飛行場は多くの悲劇を残し、終戦とともにその役割を終えます。現在でも多くの基地の跡を見ることができます。 その後、戦後の復興を経て現在に至ります。